メリディアン180 書評シリーズ――『推察的セキュリティ――テロ資金追跡のポリティックス』(マリエッケ・デ・グフーデ)

 評者:アフォマ・オフォディル(Afoma Ofodile) ジャンル:金融、セキュリティ、テロリズム


著者紹介:マリエッケ・デ・グフーデはアムステルダム大学政治学科政治学教授であり、「グローバル秩序におけるヨーロッパ」の問題に着目している。もともとグフーデはアムステルダム大学ヨーロッパ学科上級講師を務めていた。彼女は2001年にニューカッスル大学から国際政治学の博士号を授与され、ニュー・スクール大学院においてヴェラ・リスト・フェローシップ(1997-1998)、経済社会調査協会(ESRC)においてポストドクトラル・フェローシップ(2001-2003)を受けていた。

序論

テロリストによる攻撃の猛襲は、世界中の諸政府に対して、テロ資金を標的としたセキュリティ確保の手法の変更を強いてきた。これは、潜在的なテロ加害者の資金トレールを追跡することで、将来の攻撃を先取りするセキュリティ機関をともなうものである。グフーデは、「金融セキュリティ装置」(28)としてのこうした手法に言及している。それは、当該目的を達成すべく集合的に用いられる、法、機構、民間イニシアティブからなるランドスケープを構成する。この目的は、資金の流れを打ち切るためだけではなく、先制的介入がなされる空間を開くため、すなわちセキュリティの時間と空間の拡張を可能にするためでもある。

金融領域は、将来の攻撃を阻止するうえでの、「対テロ戦争」の主要な対処方法の一つとなった。『推察的セキュリティ』は、先制的実践が用いられる空間、およびいかにこの方法がしばしば固有の危険性をもたらすのかを特定している。しかしながら、その根本的な主題は、資金に関することである。すなわち、資金が及ぼす力、資金が背後に残す痕跡、および資金が与える、将来の攻撃阻止を助ける手がかりである。金融情報は、個人と疑わしい取引に関連した活動とのあいだの諸関係を確かめるべく「横からの注視」を、そしてテロ行動の警告サインを特定することで「前からの注視」を、法の執行に可能とする(xxv)。

また、『推察的セキュリティ』が描きだすのは、いかに資産凍結や資産のブラックリスト化という実践が、個人からの無罪推定の剥奪、適正手続きの否定、および社会参加の機会の除去といったような広範囲に及ぶ影響を与えるかということである。グフーデは、この装置に内在する危険性への警告を最後に記し、そうした推察的実践のチェックを行う新しい種類の政治を求めている。

要約

テロ資金調達の標的化における先制性は、予測不可能なかたちで集合的に振る舞うような規則と専門家が十分存在することによって特徴づけられるような「空間」をつくりだし、そのなかで標的を定めたセキュリティ行動がなされる(xxix)。本書が着目するのは、三つの「空間」である。第一に、日々の銀行業務のなかで起こる疑わしい金融取引。第二に、非公式な血縁関係にもとづく送金チャンネル。第三に、組織の疑わしい慈善寄付。グフーデが探求するのは、どのような金融的介入と先制的実践が行われ、また逆にそれらがどのような危険性をつくりだすのかということである。

第三章で論じられる第一の「空間」(57)は、どのようにして標準的な金融取引が確定されるのかに着目している。抵当支払いのような金融取引は、普通の近代生活の一部として考えられており、そうした普通の活動の外部にあるものはどんなものでも潜在的に疑わしい。疑義のある取引とは、どのようなものなのか。どのような種類の金融的関係が、疑義のある関係に追加されるのか。それらの問いは、容易に回答可能ではない。というのも、テロリストの典型的アカウント・プロフィールがどのようにみえるのかということを説明するうえで、歴史的なデータが存在しないからである。結果として、推察は、役立つ金融情報を捉えるのに馴染んでいない。この手法は、銀行から保険会社、証券会社といったその他の金融機構への、報告義務の移行を帰結した。この移行の利点とは、疑義確定に用いられる基準の動態性と流動性によって、そうしたモデルが犯罪的な行動と計画の変化を意識し続けることが保証されていることである。欠点としては、そうした私的な存在に主観的で流動的な基準の導入を要請するということは、なにが疑義のある取引であるのかをめぐる推察を、本質的にみれば彼らに許容しているということである。これは、セキュリティ判断の脱政治化であり、透明性と説明責任の欠落にいたる。これは、データが拙速に判断されて最終的なものとなる、あるいはたんに誤解釈されるという状況を含意している。

第四章で検討された「金融的逸脱」(95)という第二の空間は、ハワラ(hawala)のような非公式な送金チャンネルの領域に存在する。先制的な論理を強調する第一の空間とは異なり、この空間は疑義の領域を広げようとする。資金の追跡不可能性ゆえに、9/11のテロ攻撃以降の最重要な政策目的とは、そうした非公式な送金チャンネルに一定の形式を与え、それらを西欧的な規制の領域のなかに組み入れることであった。そうした非公式なシステムの事例とは、ムスリム世界において資金を送るために伝統的に用いられてきた方法であるハワラである。このシステムを通じて、資金は、受領者に支払われるべく、遠隔地にいる代理人に指示をする代理人に支払われる。そのような金融フローをコントロールする方法は、送金される資金の発生源、出資源、目的の特定と確定を保証することによってなされる。かわってセキュリティをより強化するこの方法は、取引をより信頼できるものにする。しかしながら、そうした新しい実践の導入は、(ハワラのような金融)媒体が依拠する社会的、文化的なネットワークのまさしくその特性に影響を与える。この領域に厳格な規制を課すことは、利用者に対して潜在的なコスト増加をもたらし、さらにはそのような方法の利用を標準的で公式なチャンネルによって強いられてきた人々を排除することになる。また、それは、非公式なチャンネルがさらなるアンダーグラウンドおよび統制の及ぶ場所の外部で被るリスクを増大させる。こうしたすべてにもかかわらず、望まれるのは、非公式な経済が撲滅され、グローバルな送金の流れが透明化され、その結果テロ攻撃阻止の推察に役立つようになることである。

第五章で議論されている金融的逸脱という第三の空間は、組織を疑うような慈善寄付である(125)。ザカート(zakat)は、慈善のために富の一部の寄付を求めるイスラムの実践である。その目的とは、富める者と貧しい者とのあいだの格差を減らすことでより適切な社会をつくりだすことである。この実践が疑わしく思われるのは、イスラムの教えが、資金は近々の改宗者、そうでなければジハードとして知られる神の道を行く人々に費やされることを求めるからである。懸念されるのは、そうした資金がテロの資金調達になりうるということである。慈善組織の支援者は、そのようなつながりと結社を通じたセキュリティのもとで資金を移送する。その組織を金融的標的とすることの含意とは、それが結社と言論の自由を限界づけ、(慈善組織側に)安全な行動であることを正当化する根拠をほとんど求めていないことである。さらに、慈善組織を正統化し、監視範囲内に組み入れるうえでの書類作成と手続きの要請は、そうした手続きを採用するための方法を欠く小さな組織にとって不利となる。この結果は、それが実際には社会が望み、要求するセキュリティを生みださないという意味で不確かである。なぜならば、慈善活動はその新しい通常環境では実際には不可能であるとされ、その組織の、反感を抱く悪気のない参加者が敵対心をもつにいたるというリスクがあるからである。

結論

『推察的セキュリティ』は、潜在的なテロ攻撃と戦うべく、先制的実践の導入にあたっての否定的な含意を描くために実践的な事例を用いている。しかしながら、同書は、どの程度そうした実践が成功してきたかを描いていない。ハワラのようなアンダーグラウンドなシステムが、国際的な銀行業務のチャンネルが今あるのと同様に綿密に規制されていたとしたら、おそらく大規模なテロ攻撃は防ぎえた。では、そうした先制的実践を用いることはすべて悪いのか。また、本書は、いかに多くの潜在的な攻撃がそうした実践を導入することによって停止できるのかということを示していない。というのも、その数が、セキュリティ当局が既採用の測定法の先制性を称賛していること、それについてわかっていることを越える可能性があるからである。そうした予測の成功を測定するうえでの難しさは、たんに危険性を生みだすものとして(疑義のある取引を)棄却することを困難にする。

著者は、推察にもとづく標的化が固有の暴力と危険性を生むことを示す。グラーデが強調するのは、いかに新しい手法が、法が犯されるまえに(疑義のある取引を)罰することで因果関係の連鎖をぼやけさせ、立証規準を逓減させ、そしてまったく非断定的(な判断をもたらす手法)となってしまうことである(190-197)。しかしながら、我々は、伝統的な戦争の戦術に適合しておらず、新しい方法を用いることを要求する、新種の脅威をともなう世界に生きている。それらの新しい手法が生む危険性は、現時における諸国家のテロリストへの直面という潜在的な攻撃の点からみて、痛ましいものであるが必要なものである。テロ組織の勢力範囲はグローバルであり、テクノロジーの助けをかりた作戦計画、作戦遂行のスピードが懸念される。おそらく、そうした推察的で先制的な実践を用い、可能なかぎり広範な探査網を投げかけ、その空間をセキュリティのもとに置く時期なのである。

また、著者が述べるには、先制的なセキュリティの危険性の一つとしては、それが「ネズミの嗅ぎつけ」にもとづいて行政機関に疑義を報告する「中級官僚、コンプライアンス事務官、リスク管理者」(74)への、政治的な責任と民主的な説明責任の移行を含んでいることである。それらの個人に力を付与することを、政策決定の脱政治化や説明責任のない空間の創出として描くことは、適切ではない。というのも、それらが作用する空間とは、法を超えるにもかかわらず、無法性や恣意性から離れたシステムをつくりだす規制と手続きによって特徴づけられるからである。このシステムは、テロリズムの潜在的な行動の停止を保証すべく、セキュリティと専門技術が慎重に応用されることで作動する。また、そうした「軽微な主権」(88)は究極的には、市民への責務を有する民主的に選ばれた公人の役に立ち、彼らによって権力を付与され、そこから決定を遂行する権威が引きだされる。

『推察的セキュリティ』が示すのは、いかに9/11以降のテロ資金の追跡が、先制を通じて統治を行う金融セキュリティ装置を育んできたかということである。その目的は、資金の流れをたんに断ち切るのではなく、もともとセキュリティ当局によるセキュリティ下に入っていない伝統的な銀行業務、非公式な送金チャンネル、慈善寄付を含む日常生活の空間における先制的介入を可能にすることである。それは、セキュリティの時間と空間の拡大を可能にする。そのような新しい手法は危険性を生む。しかしながら、より綿密にみれば、それらは新しい危険性を生みだすとはいえ、現時の変化に直面するなかで不可欠なものであることは明らかだ。(翻訳:林 三博)