時事問答:シリーズ「市民とその他」

第二部: 駒村圭吾 -- 最近の最高裁判決と、それが示唆する日本の移民政策の今後

聞き手: 趙 成仁 (メリディアン180)     インタビュー日: 2014年8月31日

駒村圭吾:慶應義塾大学法学部教授。2013年から同大学常任理事。憲法学について多く執筆しており、最近の著書に「憲法訴訟の現代的転回: 憲法的論証を求めて」がある。日本の改憲議論に精通。2010年からハーバード大学ライシャワー日本研究所・憲法改正リサーチプロジェクト諮問委員会委員を務めている。

駒村先生、インタビューに応じていただき、ありがとうございます。最近の最高裁の判決と、それが永住外国人に及ぼすであろう影響についてお伺いさせて頂きます。また、少子高齢化対策として日本では移民政策が議論されていますが、もしそれが実際に実行されるとなると、「権利」や「市民」に対する考え方はどう変わるべきなのかについてもお話し頂ければと思います。

今回の最高裁の判決では、「外国人は生活保護による保護の対象にならない」という判決が下されました。最高裁の判決の根拠についてお話しください。

1. まず、今回の判決の射程を正確におさえておく必要があります。この判決は、生活保護法1条・2条の規定、つまり、

  • 1条「この法律は、日本国憲法第25条に規定する理念に基づき、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮 の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。」
  • 2条「すべて国民 は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護(以下「保護」という。)を、無差別平等に受けることができる。」

に言う「国民」には「外国人」は含まれない。よって、永住外国人を含む外国人には生活保護上の受給権は与えられていない、と判断しました。

上記の条文には「国民」と書かれている以上、これに外国人が含まれないのは半ば当たり前のことであり、生活保護法という「法律」の解釈としてこの問題を見れば、今回の最高裁判決は全く常識的なものです。

2. 実は、今回の最高裁の解釈は、現行の生活保護法が制定された当初から既に明らかにされていたもので別段あたらしい解釈ではありません。また、かなり以前から、外国人にも生活保護は、行政上の措置として、事実上給付されているのです。この点、判決は、生活保護法上の保護は与えられないと言いましたが、それは法律は保護を与えていないことを意味するだけで、事実上の行政措置として保護を与えることは生活保護法に違反する、と判断したわけではありません。ご質問で引用された部分の前段を引用してみましょう。つまり、

  • 「外国人は、行政庁の通達等に基づく行政措置により事実上の保護の対象となり得るにとどまり、生活保護法に基づく保護の対象となるものではなく、同法に基づく受給権を有しないものというべきである。」

要するに、法律は、生活保護費の給付の対象を国民に限定しているけれども、公の財源から外国人にも保護費を事実上(つまり法的な権利としてではなく、一種の政策的判断として)給付しても、法律に違反するものではない、という(明示的ではありませんが)ほのめかしているのです。

3. この判決を正確に理解するために必要な歴史的知識をここでお話ししましょう。

生活保護法は、日本国憲法が制定され(1947年施行)、その25条で生存権が規定されたことから、生存権を実現するために作られた法律です。憲法25条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めてありますので、前述のように、その実現を図る生活保護法が保護の対象を「国民」に限定しているのは、憲法に忠実なわけです。

さて、この生活保護法は、1950年5月にできました。ひと月もたたないうちに、ひとつの通知が出されました。それは、1950年6月18日の厚生省の通知(「生活保護法における外国人の取扱に関する件」)です。これは、外国人一般について、「放置することが社会的人道的にみても妥当でなく他の公私の救済の途が全くない場合に限り、当分の間、本法の規定を準用して保護して差支えない」とするものでした。(「通知」とは行政機関が法律の解釈の仕方を統一するために出す内部規範です)

要するに、外国人に対する生活保護費の給付は、「法律上の権利」ではないけれども、「人道」の問題として「当分の間」は生活保護法を「準用」してよい、ということです。

次に、1954年5月8日の厚生省の通知(「生活に困窮する外国人に対する生活保護の措置について」)は「一般国民に対する生活保護の決定実施の取扱に準じて…必要と認める保護を行うこと」としています。50年の通知に見られるいくつかの条件がなくなり、ほぼ国民に対する決定実施と同じ水準での保護が認められました。

こうしてみると、生活保護法は制定の当初から、外国人を保護の対象から外していましたが、行政は、この法律ができたときから、それを事実上外国人にも準用して保護するという、奇怪なアレンジメントを取ってきたのです。

4. これは、日本政府が外国人一般に寛容であることを必ずしも意味しません。そもそも法律上は外国人を除外しているわけですし、また、つぎのような経緯があります。

1950年に上記の通知が出される3年前、1947(昭和22)年5月2日に、終戦処理のための最後の勅令である外国人登録令が定められ、台湾人、朝鮮人は「当分の間、これを外国人とみなす」とされました。これは、大日本帝国が支配していた旧植民地出身の台湾人や朝鮮人のことを指しております。つまり、それまで「日本臣民」として日本に住んでいた彼らが、敗戦によって日本が植民地を失うことによって、果たして日本人として扱い続けることができるかどうかが問題になったわけです。そこで、帝国日本は彼らを外国人として扱うことにしたのが上記の登録令でした。そして、1951年のサンフランシスコ平和条約に締結直後、旧植民地出身者たちは、日本国籍を一律に剥奪されます。これに対応して出されたのが、上記の1954年通知です。こうして、1947から1954年時点の日本には、それまで日本市民だった大量の朝鮮人・台湾人が「外国人」となって居住することになりました。そんな中、制定された生活保護法でしたが、日本国民に支給対象絞るとしても、それまで日本臣民として扱ってきた多くの朝鮮人たちをいきなり「外国人」として無視するわけにはいかなかったのではないでしょうか。こういった経緯がおそらく、事実上の行政措置として外国人にも生活保護費を給付するというプラクティスを生んだのではないでしょうか。なお、その後紆余曲折があって、支給対象の外国人は、永住外国人に限られております。

5. では何が問題なのか?

それは、最高裁と福岡高裁の温度差にあると思われます。生活保護法がスタートした当初から事実上の行政措置として永住外国人に生活保護が与えられてきました。それは60年以上の重みをもちます。その間、難民条約の締結の他さまざまな人権条約の締結なども経験しました。福岡高裁はまさにこのプラクティスの累積を重視して、一種の権利的性格をそこに見たのでしょう。逆に、最高裁は、「でも、結局、法律改正はされなかったではないか。だから、法律上の権利とは言えない。でも、プラクティスの積み上げは否定できないから、事実上の行政措置としての給付は許容する」ということなのでしょう。

最高裁のクールな判断では、今後の法改正を促す何ものも示されていませんから、外国人(永住的外国人)にも生活保護を拡大しようと言う運動が国会を動かすことを期待するしかないでしょう。

今回の判決を受けて、生活保護の行政実務や、永住外国人による生活保護を巡る訴訟はどのような影響を受けるのでしょうか?

上記のように、事実上の行政措置として永住外国人に対する給付は続きます。ですので行政実務に変化はありません。なお、法律上の権利ではなく、事実上の利益にとどまることが明らかになりましたので、永住外国人が生活保護の給付を認められなかったり、その水準に不服があっても、申立てをすることはできなくなります。

なお、永住外国人やそれ以外の一般外国人が、憲法25条を使って、現行生活保護法が憲法違反であるという訴訟を提起することが考えられますが、憲法25条はおそらくそれほど有力な見方になってくれないでしょう。

日本国憲法やそれに基づく法律が定める「国民」の「権利」を巡る最近の議論ではどのような解釈法や法的枠組みが用いられているのでしょうか?

これは非常に回答がむずかしいです。一言では言えませんね。あとで追加的に回答させてください。ただ、ひとこと言えば、最近の最高裁では、違憲判決がしだいに増えてきていると思います。立法に対してもかなりきつい注文を出す傾向にはあります。その点だけに限って言えば、新しい考え方が潜在的に胎動していることは間違いないと思います。

今回の最高裁判決は、今後その他の「国民」の「権利」(例えば地方参政権など)の有無の判定に影響を及ぼすことになるのでしょうか?

今回の判決は、生活保護法の解釈にすぎませんから、他の分野に影響はないと思います。

「国民」ではないのにも関わらず、これまで多くの永住外国人が生活保護を受給してきました。その背景には人道上の理由や、永住外国人の多くの特別な事情への配慮があるとされています。今回の原告(被上告人)も、日本で生まれ育ち、国籍国である中国には一度も行った事がなく、中国語も知らない高齢の永住外国人です。「国民」ではなくとも、長らく日本社会の一員として納税などの義務を果たしてきた原告のような永住外国人の「社会権」や「生存権」は、憲法の理念と照らし合わせて、どう考えるべきなのでしょうか?

私の考え方をかきます。

1. 生活保護法という法律自体は外国人を除外しています。では、日本人にはしっかりとした保護があるか言えば、実はそうではないのです。憲法25条の生存権は、「権利」ではあっても、法的な拘束力の弱いもので、過去の最高裁判決は、一貫して、これを具体的な権利というよりも、政策にすぎないとしています。正確には、「この規定は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではない」(1957年の朝日訴訟最高裁判決)。要するに、日本国民にとっても、「権利」ではないのです。

2. とはいえ、生活保護法の認める水準の給付を権利として受け取れる日本国民と、事実上の給付を受ける永住外国人との間では、実際の給付水準や内容に差があるわけではありませんが、そこには、国民と外国人を区別する発想があり、それが外国人の尊厳を傷つける可能性があります。実は、最高裁は、これも過去から一貫して、生存権の実現について、「自国民優先原則」「帰属国責任主義」というべき考え方を取っています。その国が自国民に福祉サービスを優先するのはアタリマエで、人はみな自分の帰属する国にそれを請求すればよいという考え方です。

これは一概に否定できません。必ずしも富める国のエゴであるとは言えないと思います。自国民のことをまったく顧みないで、富を一部の支配層だけで独占する独裁国家が、貧困層を違法移民として富裕国に送り出して、そこで食べさせてもらって、自国の独裁体制を維持することができてしまうからです。自国民のことはその国がしっかり面倒見るということは、その国の民主化の基本原則でしょう。

3. そのような前提で日本のことについて指摘すれば、永住外国人の中でも特別永住者と言われる人たち(旧植民地出身者)については、日本国民と同水準で権利を認めるべきでしょう。理由は別の原稿に書いたことがありますが、ここでは簡単に述べます。彼らは、かつて植民地支配の中で、帝国臣民になりました。それが終戦で、一方的に国籍を剥奪されたのです。私は、特別永住者は、「外国人」ではなく、「日本国民」あるいはそれに準ずる者として扱うべきだと思います。彼らが、国籍を奪われた1952年は、既に日本国憲法は出来上がっていました。その10条には、「国民の要件は法律でこれを定める」とあります。ところが、彼らから国籍を剥奪したのは一片の法務省通達でした。法律ではないのです。これは重大な憲法違反ではないでしょうか。彼らは、生活保護は事実上与えられていますが、参政権もないし、かつては長きにわたり年金受給権もありませんでした(いまでも高齢の特別永住者は無年金です)。

現在日本では、少子化対策として外国人労働者の受け入れが議論されています。実際に移民政策が進められることになると、生活保護を含めた日本「国民」以外の権利や社会保障の在り方を考え直す必要があるように思われます。現行の生活保護法、そして憲法は、今後大きく変わり得る日本社会の現実とどう向き合うべきなのでしょうか?

外国人労働者を大量に日本に受け入れると言った場合、彼らの家族も日本に受け入れなければなりません。そうすれば、子供や配偶者の健康・医療、子供の教育などなど生活に必要な様々なサービスが求められます。そもそも労働者も人間ですから、彼らから「労働者」としての側面だけを都合よく切り取って、日本の経済社会を支えてもらうことなどできません。外国人労働者が日本を支えるのに不可欠であれば、彼らファミリーライフごと受け入れることも不可欠です。そうでなければ、彼らは命がけであらゆる手段を講じて生存を確保しようとするでしょう。社会は不安定になります。

そうであれば、彼らを単に「労働者」としてでなく、「市民」として遇し、できれば日本社会にきちんと定着してもらい、「国民」として定住してもらう・・・それが健全ではないでしょうか。