フォーラム要約:中央銀行をめぐる政治の変容

以下は、メリディアン180フォーラム「中央銀行をめぐる政治の変容」(20163月~4月)の要約です。

要約者: アナリース・ライルズ(コーネル大学法科大学院、ジョナサン・ミラー(コーネル大学マリオ・エイナウディ国際研究センター)

フォーラム「中央銀行をめぐる政治の変容」は、コーネル大学にて2016年4月18日から19日に開催された同名の国際会議にむけて、議論の下地を準備しました。モデュレーターのアナリース・ライルズがフォーラムの導入で説明したように、本フォーラムと会議は、「経験的な問題として中央銀行が行うことを、また規範的な問題として中央銀行がなすべきことを理解する新しい知的アーキテクチャのためのブロックとパラメーターの構築をめぐって、研究者-政策立案者間の議論を始めることを目的」とするものでした。

本フォーラムは、中央銀行に関する、第3回目のメリディアン180フォーラムです。第1回と第2回は「中央銀行と国際的ガバナンス」と「中央銀行を取り巻く勢力とその変化」と題し、メリディアン180会議「中央銀行の政策変容」(ニューヨーク市、2013 年)に先がけて、2013年1月と2月に行われました。それらのフォーラムは、近年のグローバル金融危機を考慮して、中央銀行の役割と機能に関する基本的な問題を引きだし、学術的な探求の道筋を定めることを開始しました。

2016年のフォーラムでは、より大きな探求の一部として、これらの問題を再び検討すべく、「あらゆる意味での政治との関係において、マーケットにおける国家の場所を、とくに中央銀行の場所をいかに理解するか」をメリディアン180のメンバーに促しました。ライルズ氏は、中央銀行を取り巻いているもっとも差し迫った知的な問いと政治的な問題について、参加者たちが考えたことを提示するように求めました。

非常に多様な関心と意見が寄せられましたが、いくつかの点ではコンセンサスが得られました。

中央銀行の政治的性質

中央銀行は、その特性ゆえに政治的なアクターとしてあります。通貨の創出は、国家の法によって支えられ、つなぎとめられた民間市場に関する事柄ではなく、主権の政治的プロジェクトであるため。このことは、始めから真でありつづけてきました(Desan)。こうした政治は、国家を超える銀行業務を可能にするものとして国債の役割を認識するような、また国家にそれを再統合することを求めるような、副次的な変化の設備などのプロジェクトとともに、現在の形態においてもつづいています(Gabor)。

中央銀行の政治的な性質は、現在、これまで以上に明示的なものです。金融危機と、民間銀行を助けるために税金の中央銀行による使用によって、「中央銀行が政府と独立に有効な政策を打てるという幻想を壊し」ました。しかし、それらは、自由に用いることができる、様々な役割と様々なツールを有しています。政府の権力は、徴税と財政支出のもとに築かれています。中央銀行の権力は、通貨発行権のもとに築かれています。これは、中央銀行が政府よりも迅速に動くことを可能にします(田辺)。

問い――私たちは、政府と無関係に、中央銀行が動きうるという考えを捨てるべきでしょうか(田辺)。私たちは、安倍晋三などの政治的指導者による、財政の明白な政治化を許容するべきでしょうか、あるいは拒絶すべきでしょうか。こうした政治化は、中央銀行総裁を任命する政治的な役人が長きにわたってもってきた権限と大きく異なる点があるのでしょうか(高橋)。

民主主義の正統性と公的信頼

中央銀行の独立性という観念は、1990年代から2000年代までのあいだ、望ましいものとして広く認められてきましたが(田辺)、それは、直接的な公的監督の欠如ゆえに(高橋)、民主主義の正統性をめぐる問題を引き起こします。同時に、金融危機を回避する、あるいは管理する中央銀行の能力に対する公的信頼の不足の増大があります。従来の金融ツールの失敗、試みられたことのない選択肢の使用、経済危機からの回復の遅延は、効果的に、非独立的に作動する中央銀行の能力に対する公的信頼を侵食してきました。中央銀行の信頼性は、緊急援助、安価な債権、銀行券の発行、財政支出の拡大の不評によって、いっそう次弟に蝕まれてきました(田辺)。こうしたことは、通貨発行における、中央銀行の伝統的な独占性を脅かすような、電子マネーなどの代替通貨の出現によって、さらに悪化してきました。

それとともに、こうしたことは、中央銀行がポピュリスト的な政治の公的な関心と標的となる組織となったために(Pistor)、政治的な反発を結果として生まれました。また、反感と不信は、とくに危機の瞬間において、中央銀行がなすことについての、公的理解の不足にさかのぼりうるものです(San Juan)。一般大衆は、賃金、貿易、財政支出のような構造的問題に関する、政府の政策を理解することができます(また、どのように抵抗するかを知りえます)が、金融政策に抵抗するうえでの理解もメカニズムも有していません。たとえ、そうした政策が強い負の効果を国内的、あるいは国際的にもたらす場合でさえ (Lim)。デマゴーグは、他ものを犠牲にして、エリートの利益に従うものとして中央銀行を攻撃すべく、景気停滞についての公的恐怖とフラストレーションを利用します(San Juan、Rhee)

また、中央銀行の政治化は、民主主義を拡張するための機会としても考えられます。スウェーデンでは、たとえば中央銀行の行員が、市場に関する話を通じて、市民との対話をキュレートすることに従事するような、国家的、地域的な政治プロジェクトに従事しています。そこでは、中央銀行は、もし役人が一般大衆のために働くことと主張したいとすれば、中央銀行家は一般大衆と恒常的にコミュニケーションをとらなければならず、中央銀行の政策が「理解しやすく」、透明性を有するものでなければならないことに認識しています(Holmes)。

問い――いかにして社会は、中央銀行の独立の必要性と、民主主義の正統性への関与および、透明性と公的信頼の維持の必要性とのあいだでバランスをとるのでしょうか(高橋、Rudnyckyi、Rhee)。

役割と使命

民間市場における中央銀行の役割に関するいかなる議論も、「国家と市場は初めから融合していたということ」が認めなければなりません。国立銀行や中央銀行が民間の機能を引き継いだということも、民間の関心を調整しうるということも、正確ではありません。真に別の組織として。国家によって構築され、公債によって提供された流動性に依存する「近代的通貨のアーキテクチャ」は、資本市場、証券市場、金融市場、公債があらゆる種類の交換を潤しつづけることを可能にします(Desan)。

何人かの投稿者にとってこうした融合は、中央銀行がするべきことと、すべきではないことを、非常に鋭く定義する理由となります。「中央銀行の目標設定は、複雑なものよりも単純なものの方がいっそう良いのです」。単一のインフレ目標は、より安定した経済をもたらします。金融政策は、インフレをコントロールするための、もっとも効果的なツールであり、金融政策は独立性をもった中央銀行の領野であるべきです。他の投稿者にとっては、それはリスクをともなうものですが(rimes)、国家と市場の融合は、中央銀行の活動により広い使命を必要とします。危機管理のために中央銀行に依存することで、政治家は、経済の操縦に関する責任を放棄しています(Pistor)。それらの部分にとって、中央銀行は、もはやそれが必要とされていない後でさえ、市場において権力を行使する傾向があります(田辺)。

問い――いかに中央銀行 は、懐疑的な市場とコミュニケートすべきでしょうか(Sung-In Jun)。中央銀行は、決済システムや監督的な専門知のような、金融政策を除いた専門知の他の形態を有したているでしょうか。中央銀行は、現時点では、そうしたことに集中すべきでしょうか。あるいは、中央銀行は、インフレ統制だけに自らの役割を限定すべきでしょうか(Grimes)。

配分的効果

金融政策は、「裁量の技術」であり、中央銀行が行うことは何でも、いくらか経済的な役に立ち、他の損害を与えるということを認める必要があります(Kirshner)。

問い――誰が中央銀行の政策による受益者であり、誰が中央銀行の政策による受苦者なのでしょうか(Kirshner、Desan、Pistor)。どのように、またなぜ特定のアクターが中央銀行によって支援されるようになるのでしょうか(Desan)。いかなる種類の政治的、道徳的な責任を、中央銀行は、自らの失敗や、自らの政策の配分的効果のために有するべきでなのしょうか(Cheng)。普通の市民は、そうした問いに対して、何を、どのように考えるのでしょうか(San Juan)。

統制と監督

債権を民間銀行や外国政府に拡張するという中央銀行による決定は、その配分的効果にもかかわらず、一般大衆によって適切に吟味されません(Desan)。いかに金融機関を規制し、どの民間銀行を救済するかに関して、中央銀行に裁量権がある場合、銀行の独立性は、問題点を多く含む事柄となります(高橋)。

問い――誰が中央銀行を調節するべきでしょうか(Cheng、Pistor)。ガバナンスの構造は、適切なのでしょうか(Pistor)。銀行家は、いかに自由に「専門的な決定」を行い、「実験的な方針」を試みるべきでしょうか(Cheng)。もし銀行の監督と救済が、「行政の仕事」であるとすれば、その種の政治的な監督は、ここで行政機関にとって適切でしょうか(高橋)。

トランスナショナルな、比較論的な問題

中央銀行の政治は、ただナショナルなものであるだけではありません。こうしたことは、ヨーロッパでは十分に明確です。ヨーロッパにおいて、国立の中央銀行と、欧州中央銀行のあいだの調整によって、ナショナルとインターナショナル、両レベルにおける不確実性が生じます(Hutte)。同様に、アジアでは、中央銀行間の協力は、様々な現場の様々な政治と優先事項によってのみならず(高橋、Rhee)、その地域におけるアメリカと中国の支配権をめぐる地政学によって形成され、制限されてきました(宮崎)。

ドルのヘゲモニーは、グローバル市場にドルを氾濫させるような、連邦準備制度による量的緩和政策の指示と政策をめぐるアメリカ国内の議論が取り組んでいない、重大なトランスナショナルな効果を有しています。それは、他の銀行に対して、独自のマネー・サプライの運営を困難にします(Wang)。こうしたことは、努力によって地域の協力的な調整が生まれ、元などの、オルタナティヴなグローバル通貨を模索することをある程度、説明しています。東アジアの協力関係における、限られた努力が、地域経済を安定させる効果がある一方で、中央銀行間の、また多元的な組織による多元的な行動もまた、政治的な次元を有しています。「金融協力も政治なしに語れない」のです(高橋)。しかし、地域的で、トランスナショナルな努力は、市民権に関する新しいアイデアと、政治的な忠誠の新しい形態を生む可能性もあります(Holmes)。中央銀行家は「具体的な状況から問題を検討するべき」であり、研究者は、より比較論的で微細なアプローチを取るべきです(王、宮崎)。

問い――中央銀行が直面している問題は、様々な国々において、いかなる類似性があるのでしょうか。私たちは、それらを比較することが本当に可能なのでしょうか。それらのあいだの違いには、何か歴史的、文化的、経済的、政治的な要因があるのでしょうか(宮崎)。何が、アジアの中央銀行間の地域的協力への見通しとなるでしょうか。元がドルの代替通貨となることを促す中国の努力は、いかなることを生じるのでしょうか(高橋)。それぞれのヨーロッパの中央銀行は、欧州中央銀行の関わりのなかで、いかに自らの規制的な役割を定義すべきでなのしょうか(Hutter)。現在の政治的なモメントの複雑性と課題は、ナショナルかつトランスナショナルな政治的な変容の機会とみなされうるものでしょうか。

専門知の政治

中央銀行家は、自らの専門知の限界に深く気づいています。「政策的ツールが限られているのみならず、古い理論的枠組がもはや機能しません」(Rhee、Lim)。中央銀行は、いかに(利率を上げることで)インフレに対応するかを知っていますが、インフレを刺激するのに適切なツールを欠いています(Cheng)。

問い――中央銀行が政治的に独立なときでさえ、それらはいかに知的に独立的であるのでしょうか(Cheng)。経済理論の特定のセットにおいて、同様の教育的背景と教え込みによって生みだされた、認識論的なコミュニティにおける中央銀行のメンバーシップは、それらが直面する問題を理解するうえで限界があるのでしょうか。また、オルタナティヴなアプローチと視点への開放性を有しているのでしょうか(Rudnyckyi)。

結論

本フォーラムに携わった研究者と政策立案者のあいだには、政治は、そのあらゆる次元において中央銀行に関する政策議論で中心的な焦点となる必要があるという、コンセンサスがありました。これは、中央銀行が主にテクノクラティックで、原-科学的な活動であるという、あるいは少なくとも政治から分離されているべきであるという、長年の見方から出発しています。本フォーラムでだされた問題のいくつかは、経験的・理論的な知識が必要とされるような、研究の問題であるのでしょうか。他のものは、政策の問題、グローバル経済のアーキテクチャと規制に関するナショナル、インターナショナルな対話の中心にあるべき問題なのでしょうか。メリディアン180は、国際的な政策立案者と研究者とのあいだの、さらなる協力的な活動を行うことで、問題の両者を焦点化することを計画しています。

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