フォーラム要約:原子力エネルギーと気候変動

What follows is a summary of the Meridian 180 forum "Nuclear Energy and Climate Change" (December-January2015).

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概要

福島の事故は、原子力の未来、およびエネルギー生産の脱炭素化の必要性をめぐり、互いに結びついたいくつかの議論に対して新たなデータをもたらすとともに、新たな喫緊性を付与しました。しかし、災害後の5年間、いずれの問題についても、明確な公的合意は存在していませんでした。福島の危機においてコストが急増しているにもかかわらず、(日本を含む)多くの政府は、新しい原子力発電所の建設と既存の原子力発電所の寿命の引き伸ばしに関与してきました。同時に、多くの著名な環境保護活動家は、低炭素エネルギー混合体における賢明な(あるいは、重要でさえある)一部として原子力を抱擁しました。本フォーラムでは、モデレータのレベッカ・スレイトン先生(コーネル大学科学・技術論助教授)が、さらなる分析をほどこすことで私たちに認識利得をもたらすような鍵となる問題を特定すべく、メリディアン180のメンバーを議論に招きました。

知見

15人のフォーラム参加者のほとんどが、原子力事故のリスク、コスト、規制、監督、災害後の管理といった関連問題に着目しました。幾人かの投稿者は、感情的、社会的、文化的であるような無形なものの損失を含めることで、コストとリスクをめぐる従来型の理解の幅を広げることに賛同しました。他の投稿者は、破局的な出来事を避けるうえでの、あるいは破局的な出来事が起こる際にそれらを管理するうえでの、既存の政治的、社会的、知的な能力に関する懸念を表明しました。また、幾人かの投稿者は、化石燃料への継続的な依存が高コストとなることを認めましたが、投稿者の一人はオルタナティブな選択肢としての原子力に対する、楽観的な見方を表明しました。議論をしめくくる要約のなかで、レベッカ・スレイトン先生は、とくに問題となっている領域として、ガバナンスをあげました。スレイトン先生は、原子力産業のガバナンスに関する法体制において、誰が利益を得て、誰が損害を被るのかという点に関し、より深い分析を行うことを求めているという点で、他の参加者の意見(ペンシルバニア大学のメアリー・ミッシェル氏)に共鳴していました。次なる段階に関して、スレイトン先生は、投稿者たちが「(現在では)より高額だが最終的にはより安全なエネルギー源よりも、むしろ[…]原子力と同様に、化石燃料への依拠における隠れた社会的、文化的、環境的なコストを可視化する」ための働きを検討することを提案しました。

4つの問い

フォーラムを開始するにあたり、スレイトン先生は、「原子力に関する、4つの、相互に関係する議論について」簡単に概説しました。すなわち、「原子力が気候変動と戦う必要性、原子力による災害回避の見通し、原子力が核兵器の増殖とテロを助長する傾向、グローバルな相互依存と正義の創造や制限における原子力の役割です」。そうした議論は、下記のような問いのかたちで、示されました。下記では、投稿者が取り組んだ問いにしたがって、コメントを再構成し、それにつづく部分では、さらなる課題について記しています。

原子力は必要か

スレイトン先生は、グローバルな脱炭素化戦略の一部として、原子力の必要性に関する「もっとも体系的な分析」が「異なる結論に達して」いることをみいだしました。たとえば、マーク・ジェイコブソン氏(スタンフォード大学の工学者)は、世界のエネルギー需要は、風力、水力、太陽光によって完全にみたされうるかもしれないと主張しました。デイヴィッド・マッケイ氏(ケンブリッジ大学の工学者)は、いくつかの国家や地域が他の場所から電力を買いたくない、買うことができないのであれば、その国家や地域で原子力を開発する必要があるだろうと述べました。

人類学者のキム・フォーチュン先生(レンセラー工科大学)は、原子力を支持しないものの、化石燃料が大規模な負の影響を与えることを考慮すれば、なぜ原子力が真剣に考慮に入れられているのかという点については理解していると述べました。また、フォーチュン先生は、私たちには現在の原子力施設(それらの多くは、計画されていた寿命を超え、老朽化をしている)を維持し、閉鎖し、また将来、既存の原子力廃棄物を処理する必要があるため、原子力からたんに立ち去るといった裁量を有していないことも指摘しました。

紀誠氏(上海国際集団リスク・コンプライアンス担当副社長)は、化石燃料の危険性も強調しました。それは、地球を暖めることに加えて、1年あたり数百万人の死亡者の原因となるとされます。「人々は不意に起きた出来事にいつも印象づけられますが、統計数値には無関心です。…なぜ人々は石炭や石油よりもはるかに原子力発電所を恐れているのでしょうか」。

趙惠貞先生(延世大学の文化人類学者)は、より多くの発電が人類の発展に本当に必要であるかどうかという疑問をなげかけました。「私は、1人あたりの国民所得が2万ドルを上回れば、その国は成長パラダイムから抜けださなければならないと主張してきました」。

原子力はあまりにも危険なのか。

原子力リスクに関する議論は、(1)壊滅的な事故の危険性、(2)そうした事故の真のコスト、(3)事故を防止し、それが起こった際に、事故を管理する技術的、政治的な能力。技術自体のコスト、ウラニウムの生産者と原子力発電所が稼動しているコミュニティにとっての社会的なコストに関してもいくらかの議論がなされました。

フォーラムの導入において、スレイトン先生は、技術的なリスク概念および、時間が経過するなかでのリスク低減の可能性について議論しました。スレイトン先生は、原子炉のような、複雑で密結合な、社会-技術的なあらゆる人間のシステムでは、事故は不可避であるという、社会学者チャールズ・ペロー氏の視点を引用しました。問題は、特定のシステム上のリスクが、そのシステムについて認識されている利益との関係において、容認されうるものであるかどうかということなのです。対照的に、スレイトン先生は、工学者で社会科学者のゲーン・ロクリン氏が、事故はよりよい管理と技術によって適切に用いられるような「高信頼性組織」において避けられうると、述べています。

この点について、後半のコメントでスレイトン先生は、社会学者ジョン・ダワー氏の研究を引用し、原子力産業を航空産業と対比させました。航空学のエンジニアは、数百万回の航空機のフライト、および数千回の事故から学ぶことが可能となってきました。変更点は増え続け、デザインとテストは相対的に安価でした。原子力発電所については、ごくわずかなデータしかなく、デザインの変更はより難しく、それをつくるのは高額です。それでも、スレイトン先生は、「原子力は、毎年多くの人々を殺す化石燃料より安全であるかもしれません」と述べました。

紀誠氏は、「原子力発電所の事故のリスクは、化石燃料の使用による世界の気候変動と環境破壊がもたらす損失よりもずっと少ないかもしれません。…私は、原子力エネルギーの安全性問題は技術上、管理上のものであると結論づけています」。最後に、紀氏は、災害の恐怖ではなく、コストが、原子力が広く採用されるかどうかということを決定づけるでしょう、と述べています。

ヴィンセント・イアレンティ氏(コーネル大学人類学科博士候補生)は、コストの重要性について賛意を示し、「気候変動を意味のあるかたちで緩和すべく、広く北アメリカや西ヨーロッパで原子力ルネサンスが生まれるチャンスは、現在では低いように思われます」と結論づけました。原子力発電所は、高額であり、建設はゆっくりとしているため、競争的であることは困難です。事故が起こったときには、極めてコストがかかります。ガブリエル・ヘクツ先生(ミシガン大学歴史学教授)は、原子力が高額すぎるために競合関係には置かれえないことに同意し、政府は脱中心化されたエネルギー・システムの開発に着目するように提議しました。

宮崎広和先生(コーネル大学人類学教授)は、コスト概念の拡張について述べました。「原子力エネルギーの社会的コストは、しばしば不可視であり、未知であり、長期間におよぶものです」。「これには、経済的、心理的、社会的な被害の補償請求が、把握されているものであれ、まだ把握されていないものであれ、どんどん膨らむという理由があるのみならず、震災以来の難しい状況のなかで、生活を営んでいくために、大小様々な努力がなされてきたからです」。

原子力産業を規制する社会の能力について、スレイトン先生は、福島の原子力事故調査委員会が原子力産業と規制者のあいだの共謀関係に、災害を部分的に帰責させていったことに着目しました。幾人かの投稿者は、規制機関における公的信頼の欠如に言及しました。エイミー・レヴァイン先生(釜山国立大学グローバル・スタディーズ学科助教授)は、韓国と日本の反原子力活動家は、長いあいだ、規制者と産業の両方を含む「原子力マフィア」について議論してきており、いまではその用語と概念が広く社会に受け入れられていることに着目しました。

キム・フォーチュン先生は、概して産業リスク、とくに原子力リスクを制御するための「政治的意志が根本的に欠如している」ことについてコメントしました。フォーチュン先生は、規制とは、利害衝突、あるいは周知することの不十分さによってしばしば崩壊すると述べました。「私たちが、後期産業時代にあわせたガバナンスへと、またガバナンス改革に必要な研究・教育へと真剣に投資するまでは、原子力に対するさらなる投資は除外する必要があります」。

メアリー・ミッチェル氏(ペンシルバニア大学科学史・科学社会学博士候補生)は、原子力事故の多くの責任を公衆に転嫁するような法体制を疑問視することで、コストとガバナンスの問題を公衆に結びつけました。「極端に長期的でしばしば計算不能なリスクが、事故発生時に被害を受けうる人々と環境の負担となるべきか否かという問いを生みだしていると、私は考えています。…原子力エネルギー生産に再び目をむけ、そうした重要な事例が裁判を通じて進行している際に、誰が原子力発電で利益を得るのか、誰がリスクを被るのか、誰が長期的で、潜在的には破局的な害悪への代価を支払うのかを議論し、再考する新しい可能性が開かれていくことを、私は願っています」。

原子力はセキュリティ上のリスクをもたらすのか

スレイトン先生は、原子力技術の民間的な使用と軍事的(国家と非国家の両方)な使用が必然的に結びついているかという点に賛成しませんでした。明らかに、それらはいくつかの場所(たとえば、インドとパキスタン)では結びついていますが、他の場所ではそうではないと、スレイトン先生は記しています。民間的-軍事的なつながりは、日本でも活発に議論されており、イランの原子力問題に関する国際的な議論の中心となってきましたが、この問いに関しては追加のコメントはありませんでした。

原子力は根本的に不公正なのか

スレイトン先生は、非常に高額な技術によって建設され、一般に入手可能ではなく、取り出しが困難で危険な資源に依存するエネルギー・システムの公正性に重大な問題をみいだしました。ガブリエル・ヘクツ先生は、貧しい人々が巨大な発電所、あるいは(悪名高く危険な)ウラニウム採掘から利益を得ていないと述べました。必要なものは、脱中心化された再生エネルギー発電と幅広いアクセスへのコミットメントであると述べました。「私は、太陽光、風力、水力の大規模投資と急速な展開が、エネルギーを切望する人々に対してそれを迅速に提供し、人間に対する「安全な稼動空間」を維持するための唯一の現実的な手段であると主張する人々にくみしています」。

福島の災害の犠牲者とともに活動をしてきた弁護士の葦名ゆき氏は、災害による直接の影響を受けた人々の権利問題にとりくみました。「もし事故が起きれば、原子力発電所は周囲に住んでいる人の生活を取り返しがつかないほど根底から崩します。…私は、本件の事故によって、積み上げてきた人生を根こそぎ奪われた方々の絶望を目の当たりにしてきました」。

解暁飛氏(コーネル大学法科大学院修士候補生)は、発電所の近くで暮らす人々のことを考慮するよう、フォーラム参加者に促しました。解氏は、出身都市である中国の青島で計画されている発電所が地域の全住民に悪夢を与えていると述べました。「原子力エネルギーは致命的な兵器であり、原子力発電所の事故は回復不能な結果をもたらします」。

その他の諸問題

希望と絶望

宮崎広和先生は、以前行われたメリディアン180のフォーラムが、福島の災害につづき、希望の危機と専門知の危機という2つの関連する危機の存在を特定したことに言及しました。日本国民を保護する責任があった専門家と行政官の失敗以後、知識人は日本国民が原子力を拒絶すると期待していた一方で、「震災以降に露呈したのは、あらゆる種類の…不協和音が重なりあうといった状況」でした。宮崎先生は、危機によってもたらされた不確実性の感覚が、「多くの市民にとって非常に根深く耐え難いものとなっていました。そのため、市民はただ物事の進展を望み、アベノミクスと2020年の東京オリンピックに心を高ぶらせることになったのです」と述べました。

高橋五月先生(ジョージ・メーソン大学人類学科助教授、福島やその近辺の漁業共同体に関する調査に従事)はまた、この楽天主義の感覚と災害につづく興奮を観察しました。高橋先生は、「10年前に比べて私は、より多くの、希望と未来にまつわる話を聞いています」と記しています。

趙惠貞先生は、年配の友人であり、高い教育をうけた敬愛する物理学者について記しました。韓国にある、彼の先祖の土地で、原子力発電所の建設が検討されています。「しかし、彼は沈黙をつづけています」。彼女は、なぜ彼がはっきり話そうとしないのか疑問に思っていました。

張薇薇先生(蘇州大学王健法科大学院准教授)は、危機に対する明らかに矛盾する人間の応答は、愛することは憎むことと混ざり合い、危機は善良なるものとむかいあうという、西欧文化における、自然に対する位置づけの二重性を反映しています。「率直にいって、これは人間の合理性の限界という危機」であると、張先生は述べました。

木村周平先生(筑波大学助教で文化人類学を専攻)は、日本では「とくにツイッターやSNS、その他電子媒体における議論や意見表明はすぐに親安倍政権/反安倍政権と色分けされ」ていると記しました。木村先生は、とくに自治体が原子力発電所の建設を決定する日本に関しては、ナショナルな、あるいはグローバルなスケールで原子力に関する議論を枠づけることに反対しました。木村先生は、コンセンサスはローカルなものであるゆえに、ローカルな反対がいくつかの場所で成功しつづけてきたと述べています。

しかしながら、森裕之先生(立命館大学政策科学部教授)は、福島県では「電力会社による地元の買収や懐柔、原発に反対する地元住民が身の恐怖を覚える自治体の権力的圧力など、おぞましい状況がいまだに広がっている」と警告しています。

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